心のゆとりは観点のさとりから

人生迷って行動できなかった私が、心の仕組みと出会って、一歩一歩進んでいく物語。漫画やアニメなど好きなものもちょくちょく書いています。

我思う、故に我あり。本当なのか?

こんばんは。

 

先ほど、私自身が哲学を学んできた経験から、

「哲学の意味・価値とはなんぞや?」を少し書いてみました。

 

正直学生時代は意味があまり分からず、先生の言うことを聞いているばかりでしたが

 

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」 も色々な解釈がなされているようですね。

 

我思う、ゆえに我あり - Wikipedia

 

私自身はnTech との出会いや、量子力学などを学ぶことを通して、

 

これってどっちにも解釈可能なんだな、と

思うようになりました。

(もちろん、原典の解釈からすれば、妥当な範囲はあると思います...)

 

我思う、ゆえに我あり

で言っていることは、私が思う(考える)時はあるのが確実だ、ということ。

 

学んでいた時は当たり前に時間がずーっと過去から未来へ流れるものだ

と思っていたので、疑問は湧きませんでしたが、

 

アインシュタインが「時間は相対的なもの」と発見したように

 

時間感覚を変えてみると

 

考えた瞬間はいたとしても、その後いなくなるのでは?

考えていない時は私は有るのか?

 

つまり、永遠に存在するわけではない。

我思う瞬間には我はある。

という存在も本当はあったり、なかったりするのではないか、

そう言うことにも(心の中では)

思い立っていたのではないでしょうか?

 

また、科学技術が発達した今、

何を持って「ある」というのか。も大事なポイントですね。

 

通常、何かが「ある」という場合、

有ることと「色、模様、形」はイコールです。

 

机がある=みなさんが想像する形の机。

ボールペンを見て「机がある」と言ったらキチガイ扱いされますよね。

 

なので、色や模様、形と名前はつながっているわけですが、

人間じゃないものからしたら全く見えかたが変わります。

 

なので、「有る」というものも

人間にとってのある。

 

なんですよね。

どの角度から見ても、絶対にあるものはない。

 

これが絶対だ!というものはない。

 

我思う(意識として考える)時に、我(という色、模様、形のイメージしたもの)が認識できるので、

我がある(という風に捉えられる) ということ。

 

哲学って小難しいですよね。

こういうの好きな人は、またブログ読んでいただければ嬉しいです。

 

今日もありがとうございました。