我思う、故に我あり。本当なのか?
こんばんは。
先ほど、私自身が哲学を学んできた経験から、
「哲学の意味・価値とはなんぞや?」を少し書いてみました。
正直学生時代は意味があまり分からず、先生の言うことを聞いているばかりでしたが
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」 も色々な解釈がなされているようですね。
私自身はnTech との出会いや、量子力学などを学ぶことを通して、
これってどっちにも解釈可能なんだな、と
思うようになりました。
(もちろん、原典の解釈からすれば、妥当な範囲はあると思います...)
で言っていることは、私が思う(考える)時はあるのが確実だ、ということ。
学んでいた時は当たり前に時間がずーっと過去から未来へ流れるものだ
と思っていたので、疑問は湧きませんでしたが、
アインシュタインが「時間は相対的なもの」と発見したように
時間感覚を変えてみると
考えた瞬間はいたとしても、その後いなくなるのでは?
考えていない時は私は有るのか?
つまり、永遠に存在するわけではない。
我思う瞬間には我はある。
という存在も本当はあったり、なかったりするのではないか、
そう言うことにも(心の中では)
思い立っていたのではないでしょうか?
また、科学技術が発達した今、
何を持って「ある」というのか。も大事なポイントですね。
通常、何かが「ある」という場合、
有ることと「色、模様、形」はイコールです。
机がある=みなさんが想像する形の机。
ボールペンを見て「机がある」と言ったらキチガイ扱いされますよね。
なので、色や模様、形と名前はつながっているわけですが、
人間じゃないものからしたら全く見えかたが変わります。
なので、「有る」というものも
人間にとってのある。
なんですよね。
どの角度から見ても、絶対にあるものはない。
これが絶対だ!というものはない。
我思う(意識として考える)時に、我(という色、模様、形のイメージしたもの)が認識できるので、
我がある(という風に捉えられる) ということ。
哲学って小難しいですよね。
こういうの好きな人は、またブログ読んでいただければ嬉しいです。
今日もありがとうございました。