心のゆとりは観点のさとりから

人生迷って行動できなかった私が、心の仕組みと出会って、一歩一歩進んでいく物語。漫画やアニメなど好きなものもちょくちょく書いています。

「自分は自分でいいじゃない」で得るものと失うもの

これ、どう思う?

 

と、先日お茶した方に「自分」や「個性」のお話になった時に意見を聞かれました。
さくらももこさんのコジコジの冒頭の「コジコジコジコジだよ」のお話の部分をみてどう思うか、意見を聞かれました。

 

コジコジについての詳細はこちらをどうぞ↓↓

https://www.google.co.jp/amp/s/m.huffingtonpost.jp/amp/2018/08/27/kojikojiwa-kojikojidayo_a_23510107/

 

(このお話は、私が子供の頃(1,994年) に書かれたもの。

今よりも先生という職業がずっと権威あるもので、

「いい学校に入って、いい会社に入って。」

という風潮があったからこそ出てきたんじゃないかなと思います。)

 

もし、今の私がそれを言われたら…と言う観点で見てみました。

率直な感想は幸せな感じと寂しさでした。

なぜなら、コジコジ君の表情があまりなかったからです。


得るものとしては、文字通り、遊ぶ、自由 思ったことを何でもやれる。そんな雰囲気を感じます。

しかし、「周りには流されない!」「受け入れないぞ!」

という分厚い心の壁。

 

家庭、地域、職場、社会。環境からの考えやメッセージからの重圧を感じて、

「私」を持つことで「私」でありたい。

「私」が脅かされている。 

本当の「私」を出したい。

 その言葉の裏にある強い涙、孤独を感じました。

 

日常で「私は私」と言われた時、人によっては、「これ以上私に干渉しないで」というメッセージにも受け取れます。

 

尊厳そのもの、愛そのものの観点から見れば、

人間一人一人が自分の世界(価値観)を持っていて、その人の数だけ色々な価値観を提供できる。

協力して、融合して新しい何かを生み出すことができる。

何かを達成することで喜びを得て、できないことをやることで充実感を得る。

それが本当の価値だし生きる意味なんじゃないかと思います。

 

皆さんも学校での運動会や文化祭など、みんなで作り上げた時の気持ち、感じたことはありませんか?

 

本当は誰もが人と交流したいし、

人間関係をどんどん作りたい。

  

パートナーは結婚し、子供を残し

企業はお金や商品を生み出し

文化を作ってライフスタイルを提供する。

 

「私」を超えた繋がりの先にはたくさんの感動があります。

 

「私」は、本来「当たり前に承認されるべきもの」。

 同じ「私」でも繋がりや安心や承認を得られている「私」は今ここスッキリ!ワクワク!最高です。

 

 

今回の質問をしていただいて、私を持てる余裕がない今の時代の涙、苦しさを感じました。

誰もが「私」を持ちつつ、承認しあい、協力しあえる人が溢れるような世の中を作りたいなと思います。

 

それを作るためにnTechとの出会いもあったのかなと思います。

 

今日もお読みいただきありがとうございました。