「自分は自分でいいじゃない」で得るものと失うもの
これ、どう思う?
と、先日お茶した方に「自分」や「個性」のお話になった時に意見を聞かれました。
さくらももこさんのコジコジの冒頭の「コジコジはコジコジだよ」のお話の部分をみてどう思うか、意見を聞かれました。
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(このお話は、私が子供の頃(1,994年) に書かれたもの。
今よりも先生という職業がずっと権威あるもので、
「いい学校に入って、いい会社に入って。」
という風潮があったからこそ出てきたんじゃないかなと思います。)
もし、今の私がそれを言われたら…と言う観点で見てみました。
率直な感想は幸せな感じと寂しさでした。
なぜなら、コジコジ君の表情があまりなかったからです。
得るものとしては、文字通り、遊ぶ、自由 思ったことを何でもやれる。そんな雰囲気を感じます。
しかし、「周りには流されない!」「受け入れないぞ!」
という分厚い心の壁。
家庭、地域、職場、社会。環境からの考えやメッセージからの重圧を感じて、
「私」を持つことで「私」でありたい。
「私」が脅かされている。
本当の「私」を出したい。
その言葉の裏にある強い涙、孤独を感じました。
日常で「私は私」と言われた時、人によっては、「これ以上私に干渉しないで」というメッセージにも受け取れます。
尊厳そのもの、愛そのものの観点から見れば、
人間一人一人が自分の世界(価値観)を持っていて、その人の数だけ色々な価値観を提供できる。
協力して、融合して新しい何かを生み出すことができる。
何かを達成することで喜びを得て、できないことをやることで充実感を得る。
それが本当の価値だし生きる意味なんじゃないかと思います。
皆さんも学校での運動会や文化祭など、みんなで作り上げた時の気持ち、感じたことはありませんか?
本当は誰もが人と交流したいし、
人間関係をどんどん作りたい。
パートナーは結婚し、子供を残し
企業はお金や商品を生み出し
文化を作ってライフスタイルを提供する。
「私」を超えた繋がりの先にはたくさんの感動があります。
「私」は、本来「当たり前に承認されるべきもの」。
同じ「私」でも繋がりや安心や承認を得られている「私」は今ここスッキリ!ワクワク!最高です。
今回の質問をしていただいて、私を持てる余裕がない今の時代の涙、苦しさを感じました。
誰もが「私」を持ちつつ、承認しあい、協力しあえる人が溢れるような世の中を作りたいなと思います。
それを作るためにnTechとの出会いもあったのかなと思います。
今日もお読みいただきありがとうございました。