令和哲学カフェ テーマ「哲学」第10回
こんにちは。
平井健太です。
今日は、令和哲学カフェ「哲学」の最終日でした。
カントと哲学のぎゅっと圧縮した整理から、質疑応答で哲学とは?を深める会。
今日の個人的な気づきは3つ。
1 哲学は認識主体の啓発だが、フロイト以降、主体の変化は弱くなっていった
なぜ、科学技術の進歩はめざましいのに、哲学の進化が起きないのか?というところに直結。
人間は「目で見る」習慣が当たり前だが、
それだと「理性」ではなく「意識」より「無意識」の影響が強い。
主体を体の自分に置いた時、認識主体よりも無意識の方が強い、ということになる。
だが、無意識に勝る「主体」を定義できず。
認識対象の変化にとどまる。
2 変化に向かう人も、変化にもがいている人も、皆「チームプレーしている」
つい、「○○しなければ意味がない」という思考に人間は陥りがち。そして、できない人間を切り離す。
令和哲学やカントの観点から見れば、できる人、できない人だけでなく自分も含め
「認識対象」である。
なので認識主体からみれば対象全体が違いに影響しあい、変化を作っている。
今、を切り取ってみれば変化できていなくても、気づけばスマホを使うのが当たり前になってきているように、いずれ全体を巻き込んでそれ自体が美しい。
3 令和哲学から見た人権は「真・善・美・聖・和」の保障。
今日は自身の質問として「令和哲学からみた人権とは何ですか?」
と質問した。
令和哲学が主流になった時、社会の根っこが変わる。
もちろん理解、賛同し、ともに作ろうとしている。
では多くの人が気にする「人権」の概念がどのように変わるのか?
日本では人権といえば「基本的人権」「ルソー」「自由と平等」など連想されるが、
令和哲学では?
大前提にキリスト教的考え ある「神の被造物である人間は守られるべきものである」ことからスタートするということ。
宗教は国家権力とつながる時代もあったが、人を守る役目も果たしている。
なので人間を国家権力から「守るもの」としての人権が展開されてくる、
ことが今までの人権の歴史的な展開だと理解した。
対して、令和哲学では「真・善・美・聖・和」を誰もがみることができる、と言われた(が、詳しいことはメモしきれなかった。)
それが人の本来の権利になる、ということである。
つまり、ガラスの瓶の外、尊厳で生きられる、尊厳そのものの自分を認識できる。
それが当たり前になり、権利として誰もが教育、労働、生活で守り保障されるものになる、
ということ。
人権を守られることが当たり前になることで、
大多数の人々が貧困、飢餓、疾病から解放された。
では、「真・善・美・聖・和」が当たり前の土台になることで、どのような変化が起きてくるのか?
また、深めていきたい。
令和哲学カフェは平日 21:00〜22:30 開催しています。
ぜひお気軽にご参加ください。
今日もお読みいただき、ありがとうございました。