尊厳を守って死を選ぶのか?
こんばんは。
平井健太です。
今週の令和哲学カフェのテーマは「尊厳の美学」。
尊厳というと日常では使わない言葉ですね。
「尊厳死」という単語は聞かれたことがある方も多いと思います。
尊厳死を選ぶ、選ばない、とはどういうことでしょうか。
尊厳死とは。「人工呼吸器でしか生きられない」状態の人に対して、
「機械の身体で生きている」人間だ、とDefineし
機械の身体になってでも生きるのか?それとも人間のまま死ぬか?
人間の生き方とは何か、がベースに議論されているのが尊厳死だ、というお話でした。
では尊厳死がいいのか、悪いのか。
というディスカッションになるかと思いきや、大転回。
「人間は人工呼吸器をつけた状態である」と。
私たち人間は、自らの力だけでやる気エネルギーを生み出すことはできない。
周囲から制限され、情報を与えられることでやる気エネルギーを出すことがほとんど。
自らクリエイティブに夢を生み出し、行動しているのか?それが自律的に呼吸をし体を動かす状態。
だから私たちは人工呼吸器をつけている状態だ、と。
だからこそ私たちが選ぶべきは「尊厳死」。
この体が自分というイメージを手放し、「すべてを作り出している源泉的な動きが自分である」「すべてが自分である」という認識に変わった時、私たちは尊厳で生きることができる。
(肉体的な意味じゃないですよ)死を通過することで、人生がゲームのように、設計者として生きることができる。
今日もぶっ飛んだお話でした。
ありがとうございました。