今日もカント@令和哲学カフェ
こんばんは。
平井健太です。
5/21 から令和哲学者Noh Jesu先生主催の令和哲学カフェに参加しています。
本日も大テーマ=美学、中テーマ哲学、小テーマカント、でした。
やはり日を重ねるごとに深まっていくもので、
今回はカントの発見した「認識形式」=観点を深めていく会となりました。
人間は、自ら作り出した観点に固定される=認識形式の制約を受ける、のですが
それは具体的にどのようなものなのか?
を WHT形式で語りながら、考えていきました。
私が日に日に深まっていくのは、理性批判の重要性です。
哲学とは、真理、論理、で深めていくもの。理性か感性(経験)かと言われると理性の側を語るものであるはずです。
ですが、カントは理性の最高峰であるはずの純粋な理性を批判していくんですね。
人間の理性には限界があるんだ、と。
数学、物理学に知り得る範囲は全てではないよ、と。
当時は、コペルニクスによる地動説の発見、デカルト、ニュートンによるXYZ軸の活用から科学、数学、物理学が発展し、「自ら豊かになることができる」時代でした。
科学は合理性とつながり、合理性が重要視されていきました。
私が好きな漫画では「一番人を殺したのはダーウィンだ」という話がありました。
なぜなら、後の時代、合理性は誤った方向に進むと人種差別、社会ダーウィニズム(ナチス)につながります。人間をものと捉え、優劣を決め、適者生存の名の下に、生死すらも決めてしまう。
科学の発展の途中では、様々な分野で(今では誤ったと言える)理論が出てきましたし、実際それらを見た人の人間観は変化し、被害も出ました。
尊厳の無視、尊厳の破壊。独善的な合理性はそういった危険性もはらんでいました。
そして、白人優越主義の中で、人種差別撤廃を掲げ、その風潮を壊して散った日本もあります。
(太平洋戦争や大東亜共栄圏などもそういった分野から見ると普段言われていることとは違った観点で捉えることができます。)
それらを予見し、理性だけでなく、現実では異なるアプローチを示唆したカント。
美学について触れたいのですが、不勉強なので、またの機会に。
Noh先生のカントについてのブログ。自らの備忘録にも。
そろそろ眠くなってきたので、おやすみなさい。
今日もお読みいただきありがとうございました。